Classic Rock Revisited のインタビュー Added on 08/09/2004
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- (9月まで米国をツアーし、その後欧州をヘッドライナーでツアーするそうだが、ライブをどのくらい楽しみにしているかと尋ねられて、欧州については肯定も否定もせず)今のバンドでツアーすることが好きだ。今のラインナップが最も気に入っている。彼らは心でプレイするから。
- (過去にも述べていたように)僕はステージよりもスタジオでプレイする方が好きだ。でも、最近は自分の音がよりよく聴こえるようにステージに調整を加えた結果、ライブがよりエンジョイできるようになった。そしてもう一つライブが楽しくなった理由は観客だ。これまでこんなにも愛してくれるファンがいることが分からなかった。色々なことを秘書ではなく自分でやるようになってそのことに気がついた。今はそうした熱烈なファンたちの愛と喜びを感じている。
- (今も練習する時間を十分取れているかと尋ねられて)優先順位に沿って一日を過ごしている。第一優先は練習、第二は注文の処理、その後他にやるべきことをやるといった感じでとても計画された過ごし方をしている。自分の会社を設立する前はそうではなかった。僕はただのミュージシャンで基本的には搾取されていた。人が僕に言う作り話を信じてしまったんだ。それが後に真実ではないことが分かった。
- MSGの25周年を記念してアルバムを制作する予定だが、これはコンセプトアルバムになる。曲から曲へとストーリーがつながるような展開だ。僕が見つけたボーカリストがそのストーリーの取りまとめ訳なんだ。他のシンガーにも関わってもらいたかったから別のシンガーもあたったんだが、ストーリー作りは一人の人間にやってほしいと思っている。たまたま僕のところにデモが届き、彼は僕の望み通りの感じの歌い方をしていた。過去に一緒に活動したシンガーにこの企画で歌いたくないか尋ねてみるつもりだ。彼らが歌うスペースを残しておくつもりさ。彼らが関心を示さなければ、この新しいシンガーがすべてを歌うことになるだろうが、過去のシンガーの誰かが希望すれば、参加することになる。
- (ギターソロは真の芸術と考えているかと聞かれて)ソロは僕にとって何か特別なもので、もっとも楽しんできたものだ。どんな種類の音楽でもいいから、他の人々のアルバムにギターソロだけで参加できたらなあと思う。それがSchenker-Pattison Summitアルバムでは僕がやりたいことだけをやった。ソロを弾くためにスタジオからスタジオを渡り歩ければ本望だ。
- (The Schenker-Pattison Summitでは事前に準備していったかと聞かれて)どの曲をやるのかさえ知らなかった。ただスタジオに行って、演奏しただけ。テープを事前にもらっていたが直感的に聴かない方がいいと思った。オリジナルをコピーするのが嫌だったから。マイクヴァーニーが他のミュージシャンとやった演奏からインスピレーションを受ける方がいいと思ったんだ。マイクならその場でこんな風に弾いて欲しいとギターで弾いてくれるだろうしね。とても上手くいったよ。
- レズリー・ウェストは僕の後でレコーディングした。本当はソロの掛け合いを「Theme Of The Imaginary Western」でやるはずだったが、レズリーは「君は僕以上に僕らしく弾いているから、自分はスライドをやることに決めたよ」という電子メールを僕に送ってきたんだ。レスリーは僕にとてもありがたいメールをくれた。彼は、「欧州の3週間のツアーから戻ってきたばかりだけど、どこに行っても君が素晴らしい演奏をしていたということを聞かされた。君を自慢に思う。君は最高のギタリストの一人であり、将来的にもそうであろう。そしてずっと僕の友人だ。君のCDで演奏できたことを自慢に思っている。」と言ってくれた。誰かから空手の指導を受けて、何年も厳しい練習を経た後に師匠から認められた、そんな感じだね。
- (ギターの練習について尋ねられて)妻と別れた時、半年間落ち込んで、丸一年練習しなかった。それまでの全人生が練習だったのにね。それは1年前のことで、その後僕は練習を再開した。指が変になるまで練習したよ。1音高くチューニングすることによってテンションを上げ、指を強くしたよ。結果的には指を強くするというよりも、少し痛かったね。だから、直感的(intuitively)に、僕が直感的にという時は神の啓示みたいなものなんだけど、僕は1年間練習を止めたのは僕の手が変な状態にあったからだ。手を握ることもできなかったんだ。それが理由で練習を止めたわけではなく、妻との状態が原因だったわけだけど。1年後に再開したときは、とてもスムースでよくなっていた。それはまるで、僕には休息が必要だったのに、僕はそれを受け入れる決定を下せずにいたところに、(神が)決定を下してくれたという感じだ。僕が練習しなかったとき、今までとは違う弾き方をしていた。よりルーズな感じに。丸一年の洗浄が必要だった。それまの20年間は毎日最低でも2時間練習し、その前は毎日4〜5時間、さらに前は1日14時間も練習していたのに。
- (ファンはあなたのことをとても心配していたと言われて)彼らはいつも心配してくれる。彼らに起こった出来事を伝えると、彼らはフィードバックやアドバイスをくれた。多くの人が自分たちの別離の話やそれがどう彼らに影響を与えたかを僕に教えてくれた。ファンからセラピーを受けた形になったよ。
- (変なことが起きているのを承知している?インタビューに申し込んだ時に対応に出た人物は、あなたが病気だと言ってそれを阻止しようとした。そのことを知っているかと聞かれて)全く承知していない。自分の電子メールで目にしたことが実際に起きていることだということも知らなかった。
- (事業が崩壊し、スタジオ機材も盗まれてしまったとき)大きなショックを受け、半年間ベッドに横たわっり、テレビを見て、酒を飲み、物事がどうでもよくなった。ある時、キリスト教のチャンネルを見ていた時だった。ビビッと感じたんだ。僕は突然目覚めたから、人々はあたかも幽霊を見るかのように僕を見つめていた。僕を即座に癒してくれたのはキリスト教チャンネルで語られていた言葉だった。
- そうした経験は人生の中で何度かあった。それは何段階かでやってくるのさ。僕は人生を学習体験の場と捉えている。音楽が全てではなく、音楽をやっている時に起こることなんだ。音楽は芸術のように自己表現である。自己の中から湧き出てくるものを実行することであり、神からもたらされるものを表現することである。
- 僕はすべての人が他人がもっていないユニークさを持っていると信じている。皆がそのユニークさを追求するならば、世界はとてもカラフルなものになるだろう。現実の世界はそうではなく、物事の商業的な売買に基づいている。人々は集合し、次のブームがどんなものになるか予測する。来年も同じ服を着れないから、新しい服を買いに出かけなくてはならない。それは大きなゲームさ。すべてが商業化され、トレンディかファッショナブルかということに左右されるから、皆自分を表現することはなく、流れに乗るだけ。ステレオタイプな人間が作り上げられ、賢い人はそうしたステレオタイプの人間を操ることが出来ると分かっている。80%の人間がステレオタイプで、賢い人間がそれを操ることによって、多額のお金を稼いでいる。
- 僕はほとんどの人とは異なることをしている。だからこそ、そうした多くの問題を抱えている。ステレオタイプ人間であれば、事務所に行って自分の仕事をすればいい。ステレオタイプとして扱ってもらえるし、ステレオタイプは多かれ少なかれ似通っておりその方が楽であろう。他国からやってきて、ステレオタイプでない場合は、それだけ一生懸命やらなければならない。人はそうした人を扱い易い人とは思わないから、関わりたくないと思う。通常の世界の外に置かれ、多くの問題に直面してしまう。同時に、浮き沈みの激しい人生となる。
- (将来に対する希望を持ち始めているかと聞かれ)もちろん。落ち込むと物事が見えなくなる。イライラするし、落胆する。それは反乱のようなものだ。それが悲嘆や喪失と組み合わさると、悪いことになる。それは誰かが死んだり、愛する人を失うときに経るプロセスだ。それを乗り切ることは普通で健康的なことだ。もしそれを乗り切れないと、それを処理することができなくなり、悪影響が大きくなる。僕はそのプロセスを経てきたんだ。
- (後退することや、ドラッグやアルコールの世界に戻ってしまうことを恐れるかと聞かれて)僕の人生は浮き沈みが極端だったと自分でも分かっている。非常に極端な人生から多くの洞察や知識を得てきた。そうした場所に到達した人は多くない。そうしたことを乗り切った結果として白黒ギターを手にすることになった。僕は白黒はっきりした考え方を持っていた。それが浮き沈みの反映だった。極端な浮き沈みが多すぎたから、人にその事を話したとしたら本当にビックリさせることになろう。それを話す準備は出来ていないけど。信じられないことさ。人がここまで落ちることができるかとね。数年前に、僕は灰色領域にいなかったことに気づいたんだ。1999年か2000年のことだったが、僕はそのことに気付き、すべての物を灰色に塗り始めたんだ。メルセデスもスタジオも灰色にした。そのことを思い出すように、周りのものをすべて灰色にしたかったんだ。直感的に、そうすることによって自分の人生においてバランスをものにできると思ったんだ。灰色領域のすべてについて学ぶことによって、多様な知識と経験が得られると感じているんだ。
- 浮き沈みを通じて一連の幸福を常に得てきた。ネガティブな思考にあるときでさえ、僕に幸福を与えてくれる何かを手放さすにいれるんだ。
- (自分の行動により自分を死に至らしめなかったから幸運だねと言われて)そのことについて先日考えたことがある。バンに機材を満載しサンフランシスコのスタジオに向かう途中だった、妻に電話するために携帯電話とアドレス帳を探していたところ、道を外れてしまい、バンが三回転した。機材は飛び散り、ギターの一本が3つに分解した以外は、どの機材も壊れなかった。アンプを後部に積んでいたし、機材が自分の頭を直撃しようものなら死んでいただろう。バンは完全に破壊され、へこんで曲がってしまった。シートベルトをしていた僕は10分くらい何が起こったか分からず座ったままでいた。警官がやってきて僕を救急車に乗せた。死んでもおかしくない経験をなんどもしたから、幸運だったんだろう。
- (スコーピオンズをどうして辞めたか聞かれて)自分のことをやりたかったんだ。神がそれを望んでいたから。僕がバンドにいたらバンドにとっても兄にとっても上手くいくとは思わなかった。僕がスコーピオンズを出ることによって、兄はよりグループ人間になれるし、僕はより個人主義的な人間になれると思った。彼の常に夢は世界で最もビッグなバンドの一つにいることだったし、僕の夢は世界で最も偉大なギタリストの一人になることだった。兄は自分のエネルギーを他人と分け合うタイプで、僕は自分の道を行って、自分自身から本質を引き出すタイプだ。
- (ルドルフはあなたが彼よりも上手く弾けることに嫉妬したと聞かれて)ルドルフと僕はそういう話はしない。僕たちが育った環境では、競争も喧嘩もなかった。例えば、僕は親にお金をねだることはなかった。それよりも自分で稼いだからね。独特な生い立ちを持っているんだ。それと同時に僕らはビジョンを持っていた。人生で何かを得るためにはビジョンを持つ必要がある。ビジョンが無ければ他人と一緒だし、そこから抜け出せない。一人の人間ならば、何かユニークなものを生み出せる。僕の家族はみなとてもエモーショナルな人たちだ。創造されるものは全て多大な感情が伴っている。
- (UFOをやるために飛び出すには勇気が要ったのではと聞かれて)僕は16歳で、彼女に「中国の真ん中で僕を下ろしてごらん、そうすると何をすべきか分かるだろう」と言っていた。僕は常に分かっていた。
- (UFO加入時に英語を話せたかと聞かれて)全然話せなかった。僕は常にユニバーサルな人間だったから、白人、黒人、黄色人種がいるロンドンの町の通りを歩いていると家に帰ったような気持ちになった。唯一気に入らなかったことはコミュニケーションが出来なかったことだ。バンドもそれをとても皮肉っていた。悪趣味なジョークを言っていたし、僕は歓迎されていなかった。ガールフレンドはある程度英語が話せたから、彼らが言っていることで伝える価値のあるものはその意味を説明してくれた。ドラマーが彼女に、「マイケルに、お前は俺たちが話していることが分からないから幸運だと伝えてやれ」と言ってたよ。本当分からなくてラッキーだったよ(笑)。だから、本当はもっと長く続くべきものが長続きしなかったんだろう。
- フィルは常に格闘家だった。いつも喧嘩していた。彼に、今度僕を殴ったらバンドを辞めると言った。彼は、僕が本気かどうか試したがっていた。彼は僕を殴り、僕はバンドを辞めた、それがUFO分裂の理由さ。でも最近のUFOからの離脱についてはピート・ウェイに起因するところが大きい。彼は完全に統制を失っていた。彼はステージ上で僕の足を踏んで、僕のギターの弦を押さえて音が出ないようにしたんだ。彼は本当に不愉快でひどかった。自分のバンドのベースプレイヤーにステージ上でハラスメントを受けるんじゃ演奏なんでできなかった。彼にとっては愉快なことだったのかもしれないが、僕にとってはそうじゃなかった。それは災難だった。一人の人間がバンドの一体化を保つ役割を果たさなければならないし、僕に関する限りは、僕自身がみんなを繋ぎ止めていたんだ。ピートは過ちを犯したのに、誰もそれを気に留めなかったが、僕は誤ったことは出来なかった。僕は一体化を図り、その重圧に耐えなければならなかった。
- (あなたがギターでピートの頭をつついたという話を聞いたことがあると言われて)それが真実ならアクシデントだ。ニューキャッスルで演奏していた時、僕は彼を探していたのに見つからなかった。彼はその時もとても憎たらしかった。僕はそれを止めさせたかった。同時に、フィルがクワイアボーイズのスパイクを僕に紹介してくれたのに、僕はそれを無視した。よく分からないが、僕は彼を脇に押しのけたんだ、ピートを探していたからね。スパイクは僕に頭突きしてきた。目の周りがあざになり、本当に腹がたった。次の日にマンチェスターで演奏したときに、僕が不愉快な人間になったらどうなるか皆に見せてやろうと思ったんだ。ピートは自分が好きなことをやって不愉快な人間になることによって、バンドの一人がその重荷を背負うことになるということを分からせたかったんだ。観客を犠牲にして僕は不愉快な人間に意図的になったんだ。観客は本当に腹を立てていたけどね。僕は本当にもう我慢できなくて、バンドのメンバーに対して僕がまとめ役をやらなかったらどうなるか見せてやりたかったんだ。フィルは次の公演をキャンセルした。理由は声が出ないというものだったが、場合によってはもっと恥ずかしい理由になっていたかもしれない。分からないけど。彼は2人の医者に診てもらい、歌える状態ではないと診断してもらった。ツアーはマンチェスターで終わってしまった。大変な出来事だった。皆が何が起こったかを理解してくれてるとは思ってないけど。その事を誰にも言ったことがなかったし。
- (Lovedriveは傑作だったが、それでもスコーピオンズに残らなかったと言われて)スコーピオンズは新しいギタリストを迎えたばかりだった。ルドルフは新作の一部を僕に弾いて欲しいと思い、僕にテープをくれた。それでスタジオに行ってプレイしたところとても上手くいったから、彼らは僕に参加するよう頼んできた。僕はすでに疲れ切っていたが、兄の頼みだったから僕はそうした悪いことを忘れることにした。そして、僕が彼らとライブをすることになった場合、Lovedrive以前に彼らが作った曲をたくさん弾かなければならなくなることも忘れていた。そうした曲を全部コピーしなければならないことを。「ここで僕は何をしているんだ」という気持ちになった。ウリの作品をコピーして演奏することを。曲のハイライトを保ちつつ、他の部分をインプロヴァイズしたかったが、そんなことは出来なかった。僕は自分がハッピーな場所にいないことが分かったんだ。それでツアーするのが怖くなった。Lights Outがチャート入りしたとき、常にツアーをしなければならなくなるのかと怖い気持ちになったため、すべてを売って逃げ出した。言うまでもなく、スコーピオンズについても同じような状況にあったわけだ。僕は人前ではすごくあがるタイプだったし。僕は処方してもらった錠剤を飲んで何とかステージに上がっていた。僕はそれをアルコールの代わりに摂取していたが、ある時から両方を摂取するようになったんだ。何でこんな努力して、やっかいを背負わなければならないんだと自問した。ここで僕は何をしているんだ?なんでこの職業を選んだんだ?と。
- 神は人を強くする独自の方法を持っている。僕がそんなやり方をしなければならないことには理由があると考えている。人がもっとも恐れていることが自分の目の前にあるんだ。恥ずかしがり屋を克服する方法を必死で学んだし、それで成長もした。その当時はインタビューすら受けられなかった。
- ある時、一人の男がテープのスイッチを入れて部屋を出て行ったことを覚えている。僕はまだ18歳だった。フィルは隣の部屋にいてなんで何も聴こえてこないんだろうと思っていた。僕はただテープが回っているのを見ているだけだった。その男が戻ってきて「どうだった?」と聞いてきた。僕は「何がどうなったというんだ」という感じだった。彼は僕は何も話さなかったのか理解できなかった。ほとんど人は頼まれなくても言うことがたくさんある。彼は僕もそういう人間だと思ったんだろうが、そうではなかった。僕は誰かに質問をされた時にそれに答えるだけだった。
- クリエイティブになるのに忙しく、僕は10年間も社交面の技能を得る機会が無かった。まるで大物映画スターが常に働いていて、自分の息子が始めて歩くのを見逃してしまうような感じだった。どうすれば社交的になれるのか、どのように振舞えばよいのか分からなかった。社交的になることについて僕がまなんだのは米国に来てからだった。1989年に引越して以来、僕は多くの自己改善プログラムに通った。今はそんなにシャイじゃなくなったからより幸せになったよ。人生はより楽しくなっているし、より容易に流れていっている。だから僕のギタープレイもよりよく流れているんだと思う。僕はかつては弾くときに非常に張り詰めた気持ちでいたために、時間がかかったんだ。一生懸命やればやるほど時間がかかっていた。必要以上に強くピッキングしたり、必要以上に強く弦を抑えたり。2曲もソロをやると疲れ切ってしまったんだ。
- (ルドルフがマイケルがライブに現れなかった時にすごく怒ったかと聞かれて)彼を傷つけてしまった。みんな僕が何に悩まされているのか理解できなかった。もし僕が彼らに「僕はできない。マシアスを呼び戻してくれ。僕はもう一緒に居られない」といったら、彼らは僕に残るように説得するだろうということを分かっていた。僕はたやすく説き伏せられてしまったから。僕は常に最年少のメンバーで、他のメンバーと比べて6歳や7歳も若かった。僕は集団に付いていくだけだった。彼らは僕が不安発作に悩まされていることを理解できなかった。彼らは僕の健康状態や僕が何を考えているのかも分からなかった。彼らをとても傷つけたと思うが、彼らは真実を理解していたとは思わない。
- (どの雑誌もあなたが薬を常用し、それで再度失踪したと書いていましたがと言われて)僕はUFOを脱退したのは疲れきっていたからだ。1976年のケースは僕が成功することに恐れ、ツアーが怖かったからだ。自分のシャイさにより物事から逃避してしまった。
- (1974年にローリング・ストーンズから加入の打診があったと聞いたけどと言われ)僕は誰かから電話をもらい、ローリング・ストーンズのオーディションに参加したくないか尋ねられた。僕は、「ちょっと待って、折り返すよ。」と答えた。電話を切ってから兄に電話でそのことを伝えた。基本的には、僕にとってはUFOに参加するというステップ自体が十分に大きなステップだったんだ。まだ17歳だったし。ストーンズの件は僕には十分消化できない位大きなステップだったんだ。僕がストーンズについて抱いていたイメージはドラッグだった。ブライアン・ジョーンズは死んでしまっていたし。僕が兄に電話したのは怖かったからさ。心は惹かれたけれど、自分自身でも疑いの念を抱いていた。兄とどのような会話をしたかは覚えていないが、彼の助言もあって、僕は電話をかけ直すことはしなかった。
- (オジーのバンドへの加入について聞かれて)真夜中にとてもオロオロしているオジーから電話があった。ランディが飛行機事故にあった直後だった。僕はランディのお気に入りのギタリストの一人だから僕が第一候補だったと思うよ。オジーが電話してきたことからすると、ランディは僕のことについて話をしていたに違いないね。僕は嬉しかったけど、結局は引き受けなかった。オジーはステージ上で人の髪の毛や何かを引っ張って引きずり回すような人間だったから。僕は髪が薄く、彼のバンドに加わったらほとんど髪が残らなかったろうね。僕は常にオジーが好きだった。とてもユニークな声を持っている。テクニカルな声ではないが、すぐに誰か分かる。僕が彼と一緒に演っていたらどうなったかなんて誰もわからないよ。僕がホワイトスネークやエアロスミスに参加したらどうなったかと同じようにね。現状に満足していれば、あるいは少なくとも自分が今この瞬間どこにいるのかを分かっていればそれでオーケーさ。
- 僕は君のウェブサイトが好きだよ。僕はサイトを普段は見ないけど、君がSchenker-Pattisonのレビューを掲載していたから興味があったんだ。ウェブサイトを見ていると迷子になるから本当はやらないんだ。電子メールに対応するので十分だ。ウェブサイトにはまると中毒になってしまい、それだけで時間を使い切ってしまうだろう。ゴシップ記事を目的にネットしている人物は誤った情報を伝えてしまうことがある、それがインターネットの欠点だ。ネット上で人をレイプすることや、一撃で人を破滅に追いやることもできる。人々はそんな愚かではなく、それに対応し、自分自身で人の口から聞きたいと思うだろう。インターネットは人々を強くするものでもある。人々があなた自身について語り、誤ったことを話しているのを聞き、それに慣れるからだ。僕にとってはいいことだ。それによって強くなるし、人生がやり易くなるから。
- (ギターソロの無い最近のポピュラー音楽ひどいと思うがと言われて)僕が入れることは、それを容易に受け入れることができるということだ。どうしてそうなったか理解できる。1989年に僕がこのホテルにいた時、5分おきにギターをもった男が窓際を歩いていた。「ここで何がやっているんだろう」という感じだったが、ギタースクールがあるということが分かった。そうしたギタリストの演奏を聴き始めたところ、みんなとても似通っており、みんな同じ先生から同じ事を学んでいるということが分かった。彼らはテクニックを学んでいた。彼らは人々に世間をアッと言わせる演奏を2、3年で出来るように教えることができた。僕が通ってきたことを近道してコンパクトにしたレッスンを受けることもできた。ロスやその他のスクールは同じ手法を教えていたから突然みんなギターを弾き始めた。80年代の消費者は同じようなものを受け入れ、しまいには誰が誰だか分からないところまで来てしまった。一度見直される時期にきたんだ。それは進化のように自然な流れだと思う。物事が行き過ぎたんだ。次の世代はそれに対応できなくなってしまった。スティーブ・ヴァイよりどれだけ上手く弾ける?音楽をやりたい16歳にとって、「ヴァイよりどれだけ上手く弾ける、そうなるにはどれくらい時間がかかる?」といったことが恐ろしい事実として圧し掛かってきた。人々はギターに辟易し、ソロがカットされる結果になった。本当に真剣な人々だけが生き残った。真剣な人は本当に好きだからやっている。中途半端な気持ちでビッグになることを期待してやっている人は消えるのも速い。ソロが弾かれなくなった途端に彼らはコンピュータのレッスンを受け始めた。僕は多くのシーンの変化を生き延びてきた。ディスコからパンク、グランジに至るまで。何かをやることをとても愛するということは、何があってもそのことをやらなければならないということだ。聴きたいという人がいるならば、それで十分だ。
- みんなへの僕のメッセージは、Keep Rockingだ。もしみんながロックを続けないならば、自分でやるよ。人生は先に進み、次の何が起こるか誰も分からない。そのことが僕に希望を与えてくれる。UFOを去ったとき、一生に一回しかこんなこと出来ないだろうと思ったが、それは正しくなかった。生涯で何回も可能だ。自分自身のことをどれだけ信じているか次第だ。多くの人が、ある時点でギターを壁に掛け、まともな仕事に就くという風に感じたに違いないが、そうしたアプローチでは、出来ることも出来ない。
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